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お金の有無は善悪を決める

労働者の皆様。


こんにちは。今日も辛い労働お疲れさまでした。皆様の一人一人の働きが数百集まって、一人の金持ちの生活を支えているのです。


お金を持たない者は働かないといけない、働いても少数の金持ちを、さらに金持ちにする駒として使われるのが、この資本主義のルールです。


そんな資本主義のルールに反抗し、人を利用する側に立ちたいと思っているリェータです。


今日、youtubeで面白い動画をみた。50歳になる息子が働きもせずプラプラしていて両親は「働け」と言っているのだが、息子はパチンコをしていて、まったく働く素振りを見せないのだ。

目次

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働かないイメージは悪い

パチなんかしない貧乏人の私が、無職でプラプラしていても、世間の人は「働け」と言われ、女性からの受けも最悪でしょう。女性なんて男性をアクセサリーぐらいの位置づけですからね、他の女性に自慢ができる男性でないと付き合ってくれないですからね。


だから肩書がある男性、医者、弁護士なんて婚活で大人気なのは、それが原因でしょう。


これは決めつけではなく、医者、弁護士等の男性限定婚活は、男性より女性の参加費の方が高いです。それだけ、こういう職業の人と結ばれたい女性が多いのです。逆にお金を稼がない無職への風当たりはかなり強い。

さらに悲しいことだが、私のようなオッサンなら散歩をしていて、子供に「こんにちは」と声をかけただけで事案が発生します。


なぜ働かない無職の男性へのイメージは最悪なのでしょうか。やはり働かない=お金を稼がないというもことなので、行政のお世話になっていて、みんなの税金に集る存在だと見做されているからなのでしょう。

私に10億の貯金があったら

無職の私に10億の資産があったとして、仕事もせず昼間から酒を飲んで、プラプラしていたらどうでしょう。だれも私に「働け」とは言わないんじゃないですか。


誰が私に「働け」と言っても、働かないといけないほど、お金に困っていないと返事します。そういう言われれば周りの人も納得するのではないでしょうか。10億資産があれば3%の利回りで年収3000万円の不労所得あり、労働する必要はありません。


そこまでくると、サラリーマンの平均年収400万なんて馬鹿らしく感じるでしょう。だって、寝ていても年収3000万稼げる身分が、なぜ、わざわざ満員電車に乗って通勤をして、たったの年収400万円を稼がないといけないのですか?


そんなお金持ちになったら、私に「労働しろ」とバカげたことを勧めてくる人もいないでしょうし、おそらく、私は周りの人間に「アーリーリタイアができて羨ましい」と言われると思います。それでも、働けと言われたら、繰り返しですが、働かなければならないほど、お金に困ってないと言い返します。


資本主義である限り

ニートも同じ働いていないという行為なのに、なぜ世間での評価が変わるんでしょうかね。


私がサラリーマンをしていて年収300万円を稼ぐのと、私が定職についていなくて、株の配当等で年収300万円だったらどうでしょうかね。女性は、後者の定職についてない無職の年収300万を選ぶんじゃないでしょうか。


そりゃそうでしょう。不労所得が年間300万円あれば、病気になろうが、欝になっても入ってくるお金が変わらないんですし、ちょっと働けば年収を上げることも容易ですし、仕事でイライラしたりもせず、家庭の事を見てもらうことも容易です。寝ていても300万を稼げるという事は、運用資産は1億以上あるのは確実でしょうし、贅沢しなかれば、働かなくていいでしょう。

お金の有無により善悪が変わる

先ほどのニートの例を挙げましたが、ニートは社会から糾弾されます。ですが、不労所得があって働いていない人は糾弾されることはありません。


なぜ世間では同じ「働いていない」という行為なのに評価が違うのでしょうか?結論を言うとお金の有無が善悪を決めるという事がよく分かります。


お金を持つことは偉い

この記事を書いていて思ったのは、この資本主義というシステムは、勤勉に働いたものが勝者ではなく、お金を稼ぐ抜け道を作ったものが勝者になります。


「資本主義というのはお金を稼ぐ人は偉い、労働者に給料を渡して生殺与奪を握る経営者が偉く、経営者にお金を出資する資本家はもっと偉い」ということを、学校では教えない。


盲目的に、小学校から義務教育が始まり。統一感がない学習内容、授業時間の機械的な区切りで子供の興味をぶつ切りにする。国民の幸せ、子供の幸せを考えて作ったものではないのが明らかです。


教師(上司)のいう事に従う、宿題(残業)をこなすように子供たちに学校という組織を使って刷り込むわけです。ひたすらサラリーマンになる為の教育を・・・・



義務教育を受けていた時、社会の教科書だったと思いますが、貧困の中生き抜く子供たちの写真を見させられたことがあります。主にアフリカの子供たちで、貧困で苦しんで学校にも行けなくて、農作業を手伝っている風景をみたことがあります。


今、思うと、発展途上国で学校に通っていない人の方が人間的なのではないかと思います。だって政府が検閲した教科書を使って学習することがないからです。


子供たちに、暴力反対、平和、人権やら子供たちに教えこむのは、そのカリキュラムを教え込む日本政府(彼らは自衛隊、警察という暴力に守られている)が、自分たちに牙を向かないようにするためなんでしょう。


奴隷が結束して国に歯向かうと革命が起きるので、学校教育で疑問を持たない人間を作ることが目標です。

教育の欺瞞

こういうことを高校2年くらいで気が付いてしまったので、もう大学受験は受けたくなくなりました。だって名門大学に通って卒業したところで、サラリーマンにしかなれず、1日8時間週5日を労働に体を捧げるなんて馬鹿らしいと気が付いてしまったからです。


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